マエカワの備忘録的な何か

思い立ったが吉日

メディア論 其の三 20171023

はじめに

 台風があったが、三限なので通常通り講義がありました。

本題

 メディア論を勉強していく中でまず大切になってくるのが「メディア特性」。これをよく理解していないと、メディアを使ったサービスは提供できない。課題のコミックムービーでもこの性質が問われます。

メディアの歴史

 文字は紀元前2500年ほど、映画は100年位前に生まれた。映画、テレビ、ラジオは比較的新しいメディアだということは、前期の講義「社会情報論」でも取り上げられていた。世界各地でも人類が残したメディアの痕跡を見つけることができる。例えば、古代エジプトの壁画やスペインのアルタミラの壁画など。最初は造形があいまいなものだったが、時代が進むにつれ、その精巧さは増していった。ここで疑問に思うのは、狩猟採取で生きていた祖先はなぜこのような遺産を残したのだろうか。何か創作するくらいなら、魚屋動物を狩ったほうがよっぽど有益であるのに…。講義では、絵をかいたり、モノを生み出す本能が人間にあるのではないかということで紹介されていたが、実際のところはどうなのだろうか。
 最初に文字誕生の時代について書いたが、世界初の文字といわれるのがシュメールの楔形文字。これは粘土や銅板に刻まれていた。しかし、時代が進むにつれ、携帯性を考慮したのか竹に文字を書くという文化が中国では生まれた。そのほか、ヨーロッパでは羊皮紙に聖書を書き写したりしていた。この羊皮紙は、羊の皮から作られているだけあって、1ページが厚い。作るのに手間もかかり、聖書一つ作るのに年単位での時間がかかり、その分高級品として、一部の貴族や聖職者にしかわたっていなかった。この構図を破壊したのが活版印刷

活版印刷

 15世紀に誕生した。そもそも「活版」とは何であろうか。これは活字があるということを表している。では「活字」とは?
 これまで版画のように一つのページにつき、そのオリジナルとなるものが一つあった。そのため、新しくページを作るときに、一からオリジナルを作らなければならなかった。そこで発明されたのが「活字」という鉛に文字が刻まれているもの。これを組み合わせてインクをつけてすることで、ページを作ることができるようになった。うれしいことに、活字は再利用可能であるため、組み合わせを変えることで新しい文章をどんどん印刷することができるようにもなった。
 この発明により、かつて貴族くらいしか持つことができなかった聖書が安くなり、中間層の人でも持つことができるように。これまでお布施を礼拝のたびに信者から集め、その金で成り立っていた教会だが、「そんなこと聖書のどこにも書いていないじゃないか」と中間層からバッシング。教会の権威を落とす方向に働いた。これを宗教改革という。
 また、教会はその権威を取り戻すため、財源を確保するために対立。そこから宗教戦争が引きおこる。

メディア論について

 この「メディア論」という言葉を最初に提唱したのはマクルーハンという人(著書は「メディア論」「グーテンベルクの銀河」など)。
 メディア論では、メディアを対象にして研究がなされている。初期のころのメディア論では、「情報モデル」を採用していた。これは、どんなメディアを使っても情報は変わらないとするもの。たいして、今では「メディアモデル」が採用されている。これは、メディアのあり方で情報の性質が変わってしまうというもの

 メディアとは、手段ではなくメッセージなのである

メディアのクール/ホット

 メディア論では最初、テレビと映画を対象として研究が進められてきた。この際、クールとホットの観点から考察している。

  • クール:低精細で補う余地がある。そのため参加しやすいが、情報量は少ない。
  • ホット:高精細で補う余地がない。参加しにくく、情報が多い。

 そもそもなぜテレビと映画なのかというと、1950年代に映画からテレビへの変遷があったからだ。両方とも「動画」であり、映画のほうが画素数が高く、クオリティも高い。なのになぜ、人はテレビのほうへ流れていったのか。これが大きなメインテーマになる。ちなみに、現在の「テレビからテキスト情報(Twitterなど)」への変遷もこの問題と同じ様相を呈している。
 テレビと映画の画素数について詳しく見ていく。

  • 映画:約3000万画素。
  • テレビ(当時):30万画素。4Kでも880万画素になる。

 映画関係の統計を見てみると、タイトルの数はあまり変化していないのに対して、テレビが普及し始めた1964年あたりから映画館の数は減少し続けている。

宿題

 なぜ映画ではなくテレビを見るようになったのか。なぜ今テキスト情報が、テレビを差し置いて伸びているのか。
 これについてちょっと考えてくる。

 この問題こそメディア論の始まりなのです。