マエカワの備忘録的な何か

思い立ったが吉日

認知科学 其の二 20171011

前置き

 言語はなぜわかるのか。これについては生まれながら、遺伝的に組み込まれたシステムだという「生得説」と、生まれた後の環境や周りをまねることによって手に入れるという「模倣説」というものがあった。
 言語のレベルは大雑把に「音」「単語」「文」に分けることができる。低レベルな「音」や「単語」に関しては有限個であるのに、これらを組み合わせた「文」になると表現の数は無限大に発散してしまう。このように段階的にジャンプすることで人間はその表現の幅を広げまくっている。これを二重文節構造と呼ぶ。

本題

N.チョムスキーについて

 「現代言語の父」、言語学者のN.チョムスキー話し言葉について、生得性が存在していると主張している。しかし、生得性に関しては以下の疑問点も上げることができる。

  • 動物に育てられた、いわゆる野生児も言語を理解することができるのか?
  • なぜ、第二言語の習得は難しいのか?
  • なぜ、この世には多様な言語が存在しているのか?

 人物像に関しては下のリンクへ。面白いです。
  ノーム・チョムスキー - Wikipedia

「ら」抜き言葉は妥当⁉

 「食べれる」「見れる」などの「ら」抜き言葉は、敬語表現と可能表現を区別することができるため、言語学的に妥当な発生だと主張する学者もいるらしいです。

子供の言語獲得

 言語の獲得は2、3才くらいで完了しているという。人間の記憶も、思い出すことができるのは言語獲得の時期からという人が多いらしい。子供のころの言語獲得についてはいくつか疑問点があり、その一つとしてプラトンの問題というものがある。

映像資料「ことばの不思議」

言語額の変遷

 これまでの言語研究者は言語の歴史を研究していた。現在では、人間と言葉の関係を探るようになっている。歴史という外在的な事象から人間のうちに存在するものとの関係を調べていくことは認知的だといえる。

人間の言語システムについて

 言語にはなぜかは知らないけど、知っていることが多くある。例えば「語順」について。なぜその語順でしゃべっているのか、自分たちには当たり前のこと過ぎてその理由がわからない。
 人間の中には抽象的な言語システムが存在し、これが文を適切に生成している。また、このシステムは今まで聞いたこともないような文章を生み出し、新しい表現とすることができる。
 言語分野の事例の背景には共通のパターンがあるという。
 音韻は有限個だが、文の種類は無限大。
 単語とは「それ自体が意味を持つ最小単位」。これは一般的な回答だが、書き言葉に関して言えばそうではないだろう。「単語」という言葉は「単」と「語」に分けることができ、各漢字は意味を持っている。

話し言葉について

 話し言葉のすごいところはスペースなどの区切りがないにもかかわらず、単語に分けて認識できるということ。コンピュータではそうはいかない。人間の脳の特別な能力と言えるだろう。

プラトンの問題

 生後手にする情報の貧弱さと、言語獲得という成果の豊かさのギャップのこと。
 最近読んだ本には、赤ちゃんは生後しばらく頭をフル回転させ、その特徴を獲得しているのではないかとあった。カメなんかは羽化してからすぐ覚醒状態になり、生き延びる確率を上げようとする本能が備わっている。環境に対応するために遺伝的に組み込まれたプログラムなのかもしれない。こう考えると、言語獲得は生得的なのかなと思ってしまう。
 プラトンといえば、「その事象にはその事象たらしめる確固たるモデルがある」という「イデア論」が有名だが、人工知能の特徴表現学習も「イデア」の獲得をしているんだなぁと思ったりしました。

音と意味の結びつき

 この結びつきが存在しているのは文法があったからこそ。例えば、The boy kicks the ball.という英文。男の子もボールも蹴るという動作も同時に存在しているのになぜこのような順序になっているのだろうか。
 単語どうしが何も関係を持たなくても、文法にのっとっていれば、それらしく、違和感なく聞くことができてしまう。これは、文の構造には単語の意味は関係ないということの裏付けにもなっている。逆に文法があっていないと意味は通らず、違和感を感じてしまう。

普遍文法

 チョムスキーは人間には、いわゆる文法の「イデア」である普遍文法なるものを持っていると主張している。
 これに関連して「火星人から見た地球人」というものがあります。地球人にとってはそれぞれで差異があるかもしれないが、火星人から見てみればそんな差はないに等しいというもの。カエルから見てみれば、個体同士で明確な差があるのかもしれないが、人間から見てみればどれも同じカエル。

言語には限界がある

 例えば、人の特徴や経路、らせん形など、口で説明するには難しすぎるものが世の中には多くある。これは言語が構造を持つからだということだった。
 構造を持ったシステムはある一定のところまでは仕事をすることができる。が、限界があり、それ以上のことはできない。

手話は自然言語

 これが今のスタンダードらしいです。

言語は恣意的

 ついでにジェスチャーも恣意的。その環境によって充実度も違うし、意味も全く異なってくる。つまり、学習しないといけないということになる。
 「外国語を習得するならその土地に行け」というのは当たり前だと思ってたけど、納得。
 言語は抽象的にものを考える力を与え、それを扱う人間も抽象的。言語を紐解けば、人の本質に迫ることができるかもしれない。

付けたし

 文法とか言語とかそういった話を聞いていると、どうしても思い出してしまうのが伊藤計劃の「虐殺器官」。言葉って恐ろしいですね。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

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